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発達障害の方から教えていただく。
先日、栗原類さんが東洋経済に寄稿された文を読みました。
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彼はADHD(注意欠陥・多動性障害)とADD(注意欠陥障害)があるそうです。
読んだら書評を書きます!
発達障害の僕が 輝ける場所を みつけられた理由【電子書籍】[ 栗原 類 ] |
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漢字だらけだとわかりづらいですよね。
日常会話に訳すと、
【手先が不器用である、注意力散漫、集中力が低い、記憶力に問題がある】
ということだそうです。
小学生の通信簿によくでてくるコメントが並びますね。
一気に身近な存在になりますね。
そう、誰もが経験したことのあるところから一歩踏み出せない。
それが発達障害なのではないかな・・・そう、軽く考えます。
社会が重く考えるのではなく、軽く考えることが思いやりのある世の中なんだと思う。
確かに、【一歩踏み出せない】と簡単に言いましたが、
そこには本人の意思はあっても、脳の障害で踏み出せなくなっているのです。
それはきっと発達障害者である本人にとってはとても努力がいることだと思います。
自分は発達障害かどうかは調べたことがありません。
調べれば本当はあったのかもしれないし、実は後発性の障害が現在進行形であるか、それとも将来発生するかはわかりません。
しかし、広域の言葉で話すと、間接的にではありますが障害のある方とはお付き合いしています。
そのヒトにだけ優しくしようという気持ちはなく、自分はどうしたら一緒に楽しめるかを考えます。
それがお互いの存在を認める方法ではないかな?と、勝手に思っているからです。
彼らの中では普通の事でも、コウミアキラが行うことは宇宙人的な何かかもしれない。
だから、いつまでも思考を単純なレベルにすることが必要ではないかなと思っています。
彼らの存在があるからこそ、自分は傲慢な人間だと気が付くことができる。
子育てもそうだが、既に成長してしまっているので、当時どのように物を覚えていったのかなんて記憶はしていない。
やみくもに子供を怒っても【怒っていることがわからない】人物に対して理解してほしいというのは、自分の感情の押しつけだ。
そして、相手のペースに合わせることが出来ないのは自分がコミュニケーション不足なんだと考える様にしている。
せっかちな人間だ、許容範囲が少ない人間だと後悔する。
障害のあるヒトの方が健常者(すみません、他に言葉が見つかりませんでした)に比べ、努力の幅と成長の幅がとても大きい。
自分は本当に頭が上がらない。
だから、毎回教えてもらう。
努力することの素晴らしさを。
そして、自分が努力できていないことに対して、毎回後悔し、自分はダメ人間なんだとレッテルを貼り続ける。